今回は大阪にある『仁賢天皇陵古墳』のご紹介です。
大阪藤井寺にある百舌鳥古市古墳群の一つ。
古墳概要
百舌鳥古市古墳群東部の一つ
この古墳があるのは大阪藤井寺市。百舌鳥古市古墳群の東部エリアにあたる藤井寺・羽曳野市にある古墳の一つです。この辺りは道を歩けば古墳にぶつかると言わんばかりに、もうそれこそそこら中に古墳が点在するというエリア。このエリアを代表する応神天皇陵古墳を始め、大小様々10基前後の古墳があります。
古墳データ
この古墳に関するデータはこんな感じ。
- 名 称:仁賢天皇皇埴生坂本陵(ボケ山古墳)
- 形 状:前方後円墳
- 墳丘長(縦):122m
- 墳丘長(横):107m
- 墳丘高:11.5m(方墳部)
- 建造時期:6世紀初頭
- 被葬者:仁賢天皇(宮内庁治定)
- 住 所:〒583-0015 大阪府藤井寺市青山3丁目622−5
歩いてみるとそこそこ大きな古墳なんですが、このエリアにある古墳としては中程度。
第24代仁賢天皇
この古墳に眠っているとされるのは仁賢天皇。第24代に数えられる天皇です。
第10代崇神天皇から連綿と続く天皇の家系ですが、この頃になると傍系の子孫も広がりを見せ、政争が激しくなる時期。20代に当たる安康天皇は21代雄略天皇の一派によって暗殺、刀を返すように仁賢天皇の父親も殺してしまいます。
自分へ権力が集中することを画策する雄略天皇にとって、邪魔以外の何物でもなかったんでしょう。当然それを感じた仁賢天皇は弟の顕宗天皇と共に今でいう京都の丹後、次いで兵庫県明石の辺りに隠れ住むようになります。
皇族ながら当時は雇われて、牛馬の飼育に携わっていたんだそうです☆
そんな身分を隠してのお忍び生活を送っていた二人でしたが、宴席でつい漏らしてしまいます。てっきり刺客でも差し向けられるのかと思いきや、当時自分に跡継ぎがいなかった22代清寧天皇は喜んで皇室に迎え入れ二人を立太子、第23代に弟の顕宗天皇、24代に仁賢天皇が即位。皇室に返り咲いたのも、兄が皇太子というのも珍しい皇族の一人と言えます。
高麗(高句麗)に遣いを出し、職人を呼び寄せたり産業発展に尽力し、仁賢天皇の時代は国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された名君と言って良い人物です☆
古墳散策
大阪の古墳の例に漏れず、外周の殆どは住宅に囲まれていて、墳丘を眺められるスポットは限られています。
拝礼所
南西くらいを向いたこの古墳の拝礼所。
壕
古墳両脇は住宅に囲まれているので近づくことはできません。東側の円墳部と
北西側の方墳の角辺りからわずかに覗き見ることが可能。
まとめ
今回はこれで以上です。
この藤井寺市の古墳は堺と比べて拝礼所以外の整備があまりなされている印象はなく、またこれはごく一部の古墳を除いて共通することですが一般住宅が隣接しているので、ゆっくり眺める事ができる場所は限られています。
ただ、この辺りの古墳の集中度合いは、他に比べても群を抜いていて少し頑張れば徒歩でも5,6基見て回ることが可能なので順番に巡るのも良いかもしれません。